アラビアから到来したアラブ系遊牧民のナバテア人は、アラビア半島と地中海世界を結ぶ交易により富を蓄え、ナバテア王国とラクム(ペトラ)の都市を築きました。また自らの伝統文化を保持しながらも、交易を通じて出会った様々な異文化を受け容れていきました。この展示では、ギリシア・ローマ文化やエジプト文化の影響、またアラビアの伝統が見られる像などの出土品展示、さらに紀元前6世紀から紀元2世紀に至るナバテアの歴史を物語る映像を通じて、ナバテアの栄枯盛衰と文化融合を見ていきます。
「ハイヤンの女神像」と呼ばれるこの砂岩製の石板は、ペトラの有翼獅子神殿(ゆうよくしししんでん)から出土したもので、1世紀前半のナバテア王国時代のものです。本来は有翼獅子神殿の中に設けられていた「くぼみ」、即ち壁龕(へきがん)に置かれていました。石板には、ナバテア芸術のアラビア様式により、様式化された顔が描かれていて、神の像であったと考えられます。。
この像の両眼には、本来は恐らく宝石がはめこまれていたと思われます。上部に描かれた月桂樹の冠の、中央にあるくぼみには、描(えが)かれた女神の象徴である、装飾用の物や宝石がはめ込まれていた可能性があります。
台座部分に刻まれているのは、ナバテア語の碑文です。ここには、「ナイバート(Nayibat)の息子ハイヤーン(Hayyan)の女神」と書かれており、この像が誰の女神であるのかが、記されています。
ナバテア人は古典派の建築様式を用いながらも、独自のスタイルで装飾を施しました。大神殿の柱を飾ったこの大型の石灰岩製柱頭は、本来は漆喰が塗られ、鮮やかな色がつけられていました。象の装飾は、古典様式の柱頭に見られる、渦巻文の装飾が変えられたもので、渦巻の部分が象の鼻になっています。当時の古典建築様式にならっていたナバテア人が、独自のデザインを加えた事例です。
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